日本の医療を世界へ

患者・医師・パラメデイカル達からの声

医療は平等ではない。そして、医師でもって人生が変わってしまう。。これは今まさに現実的な問題であり、生死に関わる、もしくは人生を大きく左右する病気を被ってしまった時に誰もが考える事です。病気を治せば良いという簡単な問題でなく、その先の人生をも楽しく過ごせてこそ癒される、まさに「治癒」を目指す医師に出会えるかどうかが大きな人生の分岐点になります。

脳疾患治療のエキスパートとして知られている林基弘医師。我々は林医師による診察・方針・治療・フォローまでを多くの患者さんたちに勧めています。なぜなのか?

ここでは患者・医師・パラメデイカル達から、「林医師について」とういう内容で寄せられたお手紙をそのまま掲載させて頂き、林医師とはどういう医師なのかという人物像に迫ります。その答えはこのセッションだけでもお感じ頂けるものと考えています。

40代男性患者(現在・大学病院放射線治療科勤務医)

「脳腫瘍です。」26歳の私は千葉県の県立病院でそう告げられた。当時プロゴルファーを夢見、ゴルフ場で研修生として働いていた私はある時急に耳が聴こえなくなった。

どうも私の耳の神経には何かしら腫瘍があり、手術を行えば当時15時間程度かかるばかりか聴力は無くなってしまったり顔も曲がったり動かなくなったりする可能性もあるということらしかった。私は絶望し、悲しみにくれた。病気というものは、こんなにつらいものなのか。

とにかく顔が曲がってしまうことだけは避けたかった私はガンマナイフを受けようと、日本中の名医と言われる医師を訪ねて回った。しかし自分の人生を預けられるような医師との出会いはなかった。そんな折、林医師の診察を受けた。画像を見て詳しく治療法を話す林医師の言葉は、自分の人生を全て考えての治療法の提案だった。私は、この医師なら自分の人生を預けられるかもしれない。そう直感した。

今思うと診察を受けたこの日から私は少しずつまた前を向いて歩けるようになっていったような気がする。私がこれまで自分の治療法を決められなかったのは、病気と向き合わず病気から逃げようとしていたのだろう。この先生が側についていてくれれば、病気と正面から対峙することが出来るかも知れない。強い味方を得たような心強さは、私を奮い立たせた。

林医師のチームの医療は、治療だけではない。患者を取り巻く環境や人生設計を考えてくれる。私は治療を実際に受ける前のフォローを何年も続けた。そのころから私は人生の興味がゴルフから医学に移っていった。無謀にも林先生のような医師になりたい。そう思うようになっていた。

自分の人生は一度はレールから外れた。でも、何かあれば林先生が何とかしてくれる。後は私の人生を取り戻すだけ。そう思った私は林医師に、「私は先生のような医師になりたいです!だからこの病気を治して下さい。」と伝えた。林医師はにっこり笑って、それに向けて医学の勉強や受験に影響が出ないような治療プランを提供し、ガンマナイフ治療をして下さった。病気をすることで患者の心の苦しみを初めて体験した私にとってはどうしても医師になる必要があった。石にしがみついた。病気の辛さに比べればむしろ勉強は楽しかった。4回目の受験勉強の末、私はどうにか医科大学の合格枠にかじりつく事が出来た。先生と、先生のチームがが治してくれたのは私の病気というよりもむしろ、私の人生だったのだと思う。

20代女性患者(現在・救急病院脳神経外科病棟看護師) 

小学5年生の夏休みのことです。私は母とディズニーランドに行く予定でした。その時左の手足が痺れ始め、その後立つことも困難となり母に背負われ急いで病院へ行きました。病院へ行くと医師から「入院だね」と言われ、10歳だった私にとって自分はおかしいんだと感じ涙が止まりませんでした。

動かなくなった左半身はとても不自由で、これまで普通の生活ができたことがどれだけ幸せなことであったのだろうと痛感しました。それでもいつか絶対に治ると信じリハビリを続けていました。幼いながらも治るのであれば治療も少しの痛さなら我慢すれば良いと思っていました。両親は脳動静脈奇形のことをたくさん調べ医師にも相談し、ガンマナイフにたどり着いたと言います。初めて林先生にお会いした時は「小さいのによく頑張ってるね」と声をかけて頂きとても優しい笑顔で私の目を見て話してくださいました。とても安心し、きっと大丈夫だ、と思えました。

治療していく中で私は自分も同じ立場にある人達の力に少しでもなれたらいいなと思うようになり、看護師を目指すようになりました。自分が病気を経験した分、人にはわからない心の痛みも理解でき、患者さんに寄り添える看護師になりたいと思うようになりました。林先生の外来では高校生の看護学校を目指していることを話すととても喜んで下さり、応援してくださいました。無事看護学校に入学し、外来で林先生とお話すると「これからは医療者としてよろしくね。いつか一緒に働ける日が来るといいね。」と言って頂きました。これまでのどんな言葉よりも嬉しく、絶対に立派な看護師になろうと思えました。その結果国家試験の勉強も必死に頑張ることができ、無事ずっと夢に見ていた脳外科の看護師になることができました。私の命を助けてくださった上に夢を持たせて頂いた林先生には本当に感謝しております。

今看護師として働く中で、上手くいかないことがたくさんあります。毎日のように先輩から注意されることばかりで、慣れない1人暮らしにも苦労することもありますが、看護師を目指した過去を思い出し、多くの人に支えられていることを思うとどんなに大変でも看護師という仕事が楽しくて仕方なく思います。私はこの道を選んで本当に良かったと心から思います。

これからも私は支えてくださっている方々に感謝しながら、ずっとずっと看護師として生きていきたいと思います。

 20代男性患者(現在・国公立大学理系大学生)

9歳の頃に私は交通事故に遭いました。そこで搬送された地元の大学病院で検査のために頭部CTを撮ったところ偶然が重なって先天性の病巣が未出血の状態で発見されたというものがはじまりでした。その地元の病院では治療が難しいと判断され、私のAVMを治療してくれる医師を探す為に、私の両親は全国規模でガンマナイフがある病院を何軒も探し回ってくれました。しかし、私たちが納得のいくような返事が返ってくることは無く、寧ろ様々な病院を後にする度暗澹たる気持ちになっていったと後に両親が言っておりました。

ついに4軒目で東京女子医大の林先生の下へとやってきました。今でも両親と話すのは林先生だけが『英之君の病気は必ず僕が責任をもって治します』とおっしゃってくれて私たちの心の重荷を取り去ってくださったことです。『この人だな。ここで治療しよう。林先生に英之の命を預けよう。』そう言って両親は涙ながらに病院を後にしたと聞きました。

子供心にも林先生には安心して命を預けられる気がして『この人が自分の病気を本当に治してくれるんだ』と救われた気持ちになることができました。しかし、林先生にご苦労をかけたことは言うまでもありません。それは、私はとても怖がりで且つ痛がりだったので、1回目のガンマナイフ治療を受ける時は恐怖のあまり施術中に泣き叫んだり暴れたりしてしまったということもありました。

林先生の存在やこれまでの経験がどのように私の精神面で影響を与えたかを述べるとなると、それはまず私自身が幼いながらも自分の命に対して真摯に見つめることができたということ、そして林先生の背中を見て私も医療の道に携わりたいと、林先生の背中を追いかけて林先生の後を継げるような人間になりたいと思うようになりました。あの時私をまっすぐ見て『僕が責任をもって英之君を治します』と言ってくれたこと、治療の際に自分でも思い返せば凄まじいほど我儘で手を焼いたであろうと考えてしまう私のことを林先生からも『僕の今まで診てきた患者の中で五指に入るほど大変な患者だったよ』と笑っておっしゃってくれたこと。それ以外にもこれまでのあらゆることから(ああ・・私も林先生のような医師になりたいな。)と思い、私も医療の世界に携わりたいと考えるようになったきっかけとなりました。

元来私は病気が見つかる前にも今よりは漠然とですが科学者になりたいと考えており、林先生と出会うことで、漠然とした夢が医学の道での研究者としての道を歩んでいきたいといったより具体的なものへと考えるようになったというような変化がありました。現在は横浜市立大学の理学部に入りそこから研究者として医学の道へと携わろうと考えております。

20代女性患者(現在・リハビリテーション病院作業療法士) 

病気の発見は、私が小学生のときにひどい頭痛を訴え頭痛外来を受診したことがきっかけでした。診断の結果、私の脳静脈奇形は脳の深い部分にあり、手術での摘出は難しいという説明がなされました。その時の担当医の先生が「彼なら治すことができる」と、その日のうちにガンマナイフ治療を手掛けている林基弘先生に連絡を取ってくださり、今日に至るまで、林先生にはお世話になっております。

当初の私は、幼いながらに自分が大きな病気を抱えていること、手術をしなければならないこと、これから周りの普通の人たちとは違った生活を送らなければならないことを理解し、大きな不安を抱えていました。林先生は、そんな私たちの不安を拭うように優しく声をかけてくださり、治療に関しては、内容、効果、そして術後の生活を、私の将来のことを含めて丁寧に説明して下さいました。また、その時「絶対治しましょう」と背中を押してくださった林先生の姿は当時の私たちにとって大変心強いものでした。

長く苦しい闘病生活の中、私に転機がありました。それは、二度目のガンマナイフ治療を受けた後、林先生の元を受診した際の出来事です。林先生から「会わせたい人がいる」と、診察時間終了後にお時間をいただき、そこで林先生に紹介されたのが、私より若くして同じ病気を持つ女の子との出会いでした。彼女と私は患者同士、母親同士も患者家族同士として、すぐに打ち解けることができました。私は、すでに体に麻痺の出ていた彼女から、日々の辛い出来事や、リハビリの大変さ、苦しさについてたくさんの話を聞きました。それを聞いた私は、彼女になにもしてあげられない自分の無力さや、なぜ彼女には障害が残って自分は助かったのかという罪悪感に似た感情を持ちました。それと同時に、何か力になれることはないか、私にしかできないことはないかと模索し始め、高校の進路選択の際、作業療法士を目指すことを決心しました。

私が医療職を目指すにあたって、そして就職を果たした今も、目標としている人がいます。それは、他でもない林先生です。林先生は、人の心に真摯に寄り添い、また、その人の未来の一端を担う責任をもつことを、自らの姿勢を持って私に教えてくださいました。医療の現場に立ってみて初めて、それらはとても大切かつ難しいことであると実感するとともに、改めて林先生の医療者としての姿勢を尊敬いたしました。

今元気で働けていること、そして職種は違えど、林先生と同じ医療職、治療者として現場に立てることは本当に幸せだと思っています。治療と、その後の細やかなフォローに尽力してくださっている林先生に感謝をしてもしきれない思いです。

私はこれから「私にしかできない治療」「私にできる最上の治療」を模索し、患者様に提供させていただくつもりです。そして、林先生のように治療者として、また、ひとりの患者として、関わらせていただくすべての患者様に寄り添う心を大切に、日々勤めてまいりたいと思っています。

2歳女児患者家族(母)

生後3ヶ月の時に悪性脳腫瘍(グレード4)が見つかり、水頭症に対する手術、腫瘍摘出手術、化学療法と大きな治療を何度も乗り越えてきた娘。選択肢が手術しかない状況ということもあったのですが頭には手術の回数以上の傷がいくつもあります。生後3ヶ月の時、主治医からガンマナイフの選択肢が提示された時に「やるしかないんだな」という気持ちと果たしてこのまま言われるがままに決めていいのか、私自身も悩んでいました。

そんな時に林先生がお話する機会を作って下さいました。ガンマナイフ治療についても勿論ですが、私たち親の気持ちや娘に対する温かい言葉など、信頼できる先生だと感じました。一番印象に残っているのは『ののかちゃんの気持ちが一番です。』という言葉です。
意思表示もまだできない娘を一人の人間として尊重して下さいました。それが本当に嬉しく、そして、改めて娘の気持ちに寄り添い考えて決断しようと思ったのを覚えています。
命が優先なのはわかっていても、治療するのは本人であり、私たちではないからこそ、その分最善の選択をしてあげなくては、という思いにつながりました。

その気持ちは今も変わらず、娘の思いを考え、治療や体調について小さな事でも主治医に相談できるようになりました。これも林先生と出会えて、『患者さんの思いを大事にする』という先生の姿勢に感銘を受けたからです。

その後、娘と過ごす中で、娘の思いを私と主人で一生懸命考えました。結果、手術をしてもガンマナイフをしても同じリスクがあるなら、なるべく本人に負担がないような治療ができるのなら、その選択をしてあげようと思いました。心からガンマナイフ治療を希望し、主治医や林先生を始めたくさんの方にご尽力いただき、最初の治療を無事に終える事ができました。その際、元々ガンマナイフ治療を予定されていた他の患者さんが娘の為に日にちを譲って下さったとお聞きしました。もしかしたら講演会にいらっしゃっていた方の中にその方がいたのでは、と思うと胸がいっぱいになりました。主治医や林先生、スタッフの方だけでなく、同じように闘病されている方々の力で娘は命をつないでいただいていると思うとあの場で御礼を言えなかったのが心残りです。

娘はまだまだ気の抜けない状況で治療をしていますが、今を一生懸命生きて小さい成長を私たちに見せてくれています。娘も応援し、支えて下さる方々の思いを感じているのではないかと思います。娘にかかわる多くの方に感謝しながら、そして少しでも同じように闘病されている方々の励みになればいいなと願っています。私も主人も娘の力を信じながら、これからも闘病生活を支えていきたいと講演会に参加したことで改めて気持ちを強くもつことができました。

10代男性患者家族(父)

20万人に1人の確率で発症する病気が、大切な息子を襲ったのは小学校2年生の夏。

それからもう10年近くが経って、息子は高校3年生になりました。

病気は脳動静脈奇形(AVM)を原因とする脳内出血でした。

5歳までに何度か起きた痙攣の度に受診した医師の診断はすべて熱性痙攣、5歳を過ぎてから起きた痙攣は熱性痙攣ではないため「原因は分かりませんが異常は診られません。また、何かあれば来てください。」との大手総合病院での診断でした。

低年齢では背負いきれない大きな荷物を背負わされた息子の姿をみる日常の中で、自責の念に駆られます。

出血の前に原因がAVMであることを知り、林先生に辿り着いて、林先生の治療を受けることが出来ていれば、息子はどの様な青年に育っていたのだろうと考えても仕方がない想像をしたことも数えきれない程あります。

息子のナイダス(AVM本体)はかなり大きく、しかも脳内の深部にありました。

脳内出血が起こってからは、生死を分ける11時間に亘る大手術。 生還してからの息子は、手術後のケアと検査と身体状況の観察、祖父母の年齢の方々の中に1人交じりリハビリの日々です。

息子の病気に対しての知識があまりにも希薄で、緊急入院先の病院で慌ただしく聞く数々の事項も理解出来ないまま、教えてもらったことと思い当たることを調べて検索する有様でした。

救命して頂いた医師から手術後に言われたことは、「今後の再出血のリスクが高いです。それを止めるための手術が必要ですが、ナイダスが脳内深部に位置するため外科手術に伴う様々なリスクがあります。命の保証が出来ない上に、高い確率で新たな重い後遺症が残ります。」

既に息子には脳内出血後の重い後遺症があります。 それでも再出血となれば、またしても生死を賭しての大手術を強いられます。 後遺症を恐れて何もしない選択肢はない、との医師からの言葉。 医師の結論は外科手術の一択、執刀は自分がやる、と。

幼くあどけない息子は、自分の置かれた状況を理解出来ないで、驚くほど前向きです。

人生はこれからなのに、既に大きく重い十字架を背負わされた息子を目の前にして、より大きく重い十字架を背負わされることになる命を賭しての大手術を受けさせるという選択は受け入れ難く、医師からの代替案の情報提供も得られない中、苦悶の時間が過ぎていきました。

再出血防止のための新たな手術実行までの猶予は脳内の出血が落ち着くまでの約半年間。

進むも地獄、退くも地獄の心中で、何も手に付かない中、テレビの医療番組で認識していたゴッドハンドと評される医師へメールを送って、「命を救ってくれた今の医師に対する感謝とリスペクトの心を持ち、言われることに従うべき。」との返信を受けたこともありました。

そうした中で、身内の医師の伝手により妻の付き添いの下、息子は遠方にある国立病院へ転院することとなりました。

転院先で複数の医師によるチーム体制で新たな検査を重ねて出て来た結論は、外科手術は重い後遺症が必ず出るから勧められない、他に考え得る手段はガンマナイフです。

情けないことですが、その時点までガンマナイフという言葉さえ認識していませんでした。

メスを使わない治療方法に、心が震えました。 これしかないと。

次の段階は、どこでガンマナイフの治療を受けるのか。 「うちでもガンマナイフ治療は出来ますが、実績が少ないです。」とガンマナイフ担当医師より、セカンドオピニオンを受けるべき5人の医師のお名前を教えて頂きました。 そして5人の内、この2人の医師からは必ず受けた方が良いですと挙げられた林先生ともう1人の名前。

期せずして、必ず、と言われた2人の医師のセカンドオピニオンは4番目と5番目の予約となりました。

3人の医師のセカンドオピニオンを受けた際、息子の映像資料を見て医師の判断は共通したものでした。「ナイダスが大きく、位置も深いのでかなり難しい。」 また、息子は低年齢であるため治療出来ない、との結論が2人。 漸く見えた光明が暗転していく様で、必ず受けるべきとアドバイスされた4番目の医師の下へ縋る思いで訪ねた時です。 「これは難しいですね。 最初に救命された医師の言う通りですよ。 もう1人の医師は大丈夫、というかもしれませんが。」半ば笑いながら、この言葉だけでした。 時間にして僅か5分も掛かりませんでした。 遠くで息子に付き添う妻に伝えることが出来ませんでした。

いよいよ最後の林先生のセカンドオピニオン。 私は自らに過大な期待をしない様に言い聞かせてその場に臨みました。 映像資料をご覧頂いてからの林先生の最初の言葉は「お父さんから電話で聴いていた話から、もっと難しいと思っていましたがそれ程じゃないですね。 これなら大丈夫です。」と。 遠方にいる息子と妻、1人で不安と孤独を感じながら受けていた芳しくないセカンドオピニオンの判断内容、等々が一度に去来して、溢れる涙を止めることが出来ませんでした。 今もこれを書きながら当時のことが思い起こされて胸が熱くなります。

林先生のお陰で、それからは迷わずに進むことが出来ました。 そして、林先生は息子の治療実現のための数々のハードルを精力的にも政治的にも我が身に余る活動をされて乗り越えてくださいました。

出血した小学2年生のクリスマスのガンマナイフ治療、サンタクロースは白衣を着た林先生、明るい未来というプレゼントをくださいました。 その後、合計3回の治療を受けて、お陰様で再出血もなく、治療の後遺症もなく、今では再出血のリスクはほとんどゼロに近いと診断頂いています。

林先生は無私無欲に、患者と家族に向き合ってくださいます。 林先生からは身体だけではなく心も治す強い信念が伝わります。

私達夫婦の間にはお互い示し合わせるでもなく、息子の病気についてのネガティブシンキングを口にしない緘口令が敷かれている様に感じます。 定期的に経過観察をして頂く林先生の診察の際にはほぼ毎回夫婦と息子の3人で伺いまして、林先生の穏やかで優しいお人柄に癒され、緊張感を伴う日常から解放される心持にもなれ、明るく前向きになれる唯一無二の機会にもなっています。 そうした私達夫婦をご覧になられる林先生は「お父さん、お母さんのお2人からも治療費を頂かないとならないですね。」と笑顔で仰せになります。

林先生は志が高く、高潔で純粋な方です。 林先生の下に集う患者と家族の多くの方が、命だけでなく心も救われています。

河や海が数知れない渓流を従えて君臨するのは自らを低きに置くからと言われますが、林先生は医師というステータスに於いてそれを実践されていらっしゃる稀有な存在です。

息子が発症した当初のことを振り返りますと、救命してくださった医師への感謝の気持ちが気後れに繋がり、周りに同じ経験をしている人も見当たらず盲従するしかないのかと逡巡し、隘路に嵌り込んでいました。 もっと気後れが強ければ、医師に言われるまま外科手術を受けていたかもしれません。

私に限らず、今診てもらっている医師への遠慮の気持ちを強く持つ患者がほとんどだと感じます。

AVMを持つ患者に於いても、出血の有無、ナイダスの位置や大きさ、後遺症、等々によって症状は千差万別で情報が共有出来ない面も多々ありますから、専門家のアドバイスは必須です。

患者本位の姿勢で門戸が広く開放されていたら、助かる命が増えて、患者のQOL向上へと繋がると思いますが、何処に行って誰を訪ねたら良いのか分からないまま、また、その勇気が足りずに今面前にいる医師に言われるまま、検討する機会も情報も無く、選択すべきではない道を進んでしまう患者は多く存在する現実があると思います。

AVMの治療は後戻りが出来ませんから、潜在的なAVM患者のためにも、早期発見早期対応の態勢整備が促進されることを祈りつつ、高い技術と経験と変化に対応する柔軟性、慈愛と厚情に満ちた人間力を併せ持たれている林先生が、日本に留まらず世界の医療分野に於いて、よりご活躍の場を広げられ、より多くの患者を救われるお立場を得て、広く社会から認知される機会がますます増えることを祈っております。

林先生、いつもありがとうございます。 感謝。

10代女児患者家族(母)

林先生と出会って・・・ 

「あきらめちゃいけない、後悔しちゃいけない、一歩踏み出す勇気があれば力になる」林先生が私に初めてかけてくださった言葉だ。

娘の命をあきらめるように言われていた私にとって「あきらめちゃいけない」という言葉は何よりも勇気と頑張る力を奮い立たせてくれた。

そして今、あきらめなかったからこそ可愛い娘の顔をみることができている。

2012年4月、元気だった娘に脳動静脈奇形が見つかった。

治療方法は限りなくゼロに近く、悩みに悩んだ末、ガンマナイフではない放射線治療を受けた。

脳動静脈奇形は変化せずに経過観察が5年も続く中、私はガンマナイフの世界的権威である林先生に治療をお願いできないかと考えていた。

その矢先、娘は脳出血を起こし、その後出血が止まらず緩和ケアへうつることになった。

主治医不在であと1週間の命…。

あきらめろという医者、すっかりあきらめている医者、、残された時間で生きるためになにができるかを必死で考えた。

最後の最後、唯一の後悔だった6年前に受けるはずだった林先生のセカンドオピニオンを受けたいと思った。

ガンマナイフ治療ができる状態ではないとわかっていたが、それでもまだ娘が生きている間に林先生と話がしたかった。

脳動静脈奇形は出血しなければ元気そのものだ。

だからこそ元気な子に治療をすることをためらい悩んでしまう。

でも出血は突然で、1秒前まで元気に話していた娘がもう話すことも笑うことも食べることもできない。

本当は悩んでいる時間なんて1秒もなかったのに…。

5年間の後悔を胸に、初めて聞いた先生の言葉が「あきらめちゃいけない」だった。

あきらめろと言われてきた中でこの言葉を聞いた時、先生に出会っていればきっと今娘は元気だったに違いない、そう確信した。

やっぱり林先生だった…。

5年前の私の決断が娘を元気にしてあげることができなかった…。

後悔ばかりで涙があふれた。

今までのことを後悔しちゃいけないと力強く励ましてくださり、ほんの少し心が救われた。

娘の手を握って「よく頑張ってきたね」と言ってくださった。

初めて娘の「生きたい」気持ちが伝わった瞬間だった…。

あきらめていい命なんて一つもない。

その後無事に林先生に治療をしていただくことが叶った。

先生はどんなに難しい治療でも、患者家族の気持ちが決まればあとはリスクを伝えることなく全身全霊をかけてくださる。

心から信頼できるお医者さんに初めて出会うことができた。

どんなに小さな不安も伝えることができた。

真剣がゆえ怒られることもあったが、その情熱がまた心を温かくしてくれる。

無邪気な笑顔で気さくなお人柄との噂通り、今まで出会ってきたお医者さんとは印象が違っていた。

けれど、どんな医者よりも医者らしく、患者の気持ちになり寄り添ってくださる、患者が願う理想のお医者さんだった。

ひたむきに一つの命を大切に繋ぎ、患者の人生と向き合ってくださる先生の姿に、患者はまた前を向いて生きる希望をもつことができる。

先生の「あきらめちゃいけない」という言葉。

これは先生がどんな時も絶対にあきらめない治療をされているから出た言葉。

愛情だけで命は救えないけれど、命を救える高い技術をもっているお医者さんには愛情がある。

随分遠回りしてしまったけれど、先生に出会うことができて良かった。

先生が娘の顔を見て「あきらめていい命なんて一つもなかったね」と笑顔で仰った。

先生の一言一言がとても深く重く温かく優しいから、また明日も全力で生きようと思う。

そして、娘とともに「ありがとうございました」と伝える日がくることをあきらめず、毎日を楽しく頑張っていこうと思う。

心から感謝をこめて。。。

女子医大ガンマナイフ室 脳神経外科医

私は、学生時代から20年にわたる林先生の自称一番弟子として、先生からたくさんのことを与えていただきました。いただいた「ことば」とそのエピソードを記します。 

出会い

林先生と私とガンマナイフの出会いは、私の学生時代の臨床実習にさかのぼります。脳神経外科の実習中、ずっとオペ室で神秘的で誠に美しい脳の中ばかり見せて頂いていた中で、あたまを切り開くことなく、脳内の疾患を治せる治療法=ガンマナイフ治療を知りました。女子医学生からみたら、脳外科医なんて神様みたいな存在です。その神様みたいな脳外科医(に見えた)である林先生があたまを開かなくてもよい治療を医師、患者さん目線で一時間くらいの講義をしてくれました。それまでふらふらとしていた気持ちが一時間ほどで昇華され、「私もこの治療を専門にする」とあっさり決めたのです。

 留学を経て

入局後、当時の林先生は、すでにガンマの神様といわれ、手術とガンマナイフと副医局長を掛け持ちされ、新入医局員にとってはとても怖く、近寄り難い存在でした。なんとか林先生からの教えを乞いたく、チャンスをうかがっていました。入局3年目、林先生の留学先であった、フランス・マルセイユTimone(ティモンヌ)大学定位機能外科・ガンマナイフユニットへ見学に行くことを許されました。ここでの数日間は後の私自身を形成する中で大きな強い核となることになりました。

そこには、Timone大学脳外科の一員として、患者さんと話をし、医療スタッフともよいコミュニケーションを気づき、何よりボスであったProf. Jean Regis(ジャン レジス教授)からの厚い信頼を得て働く林先生がいました。朝5時半から夜9時まで、もちろん言語はフランス語です。林先生に患者さんたちがとても丁寧に「Merci, Docteur!(ありがとう、先生!)」と言っておらました。林先生は、医局内でも人格者であるということは聞いていましたが、林先生だからなせる技なのか、日本でのほほんと研修をしていた私には非常に大きなショックでした。さらに、Timoneでのガンマナイフ治療の内容は、今まで日本で携わってきたものと全く異なるものであり、ショックは倍増しました。しかし、幸運なことに、その場で林先生からガンマのイロハを教わることができたのです。普段めったにメモを取らない私が、一日でレポートパッドが一冊終わるくらい、メモをとりました。こんな治療法があるんだ、と、全く新しい物でもみたような感覚でした。いまだにあの時の数日間は鮮明に思い出すことができますが、筆舌に尽くしがたい衝撃でした。そして、私も2年後同じ道をたどることになったのです。医療スタッフがみんな「Motoの同僚か!」とあたたかく迎えてくれ、林先生が去り数年たっても、Moto効果が継続していたことに、驚愕しました。医師として非常に臨床、研究に長けた林先生ですが、とても人間的で誠実な人柄が、人種を越えて信頼を得ていたのです。

その後、林先生から、「お前と一緒に仕事をするのを何年待っていると思っているのだ、もう限界だ」というありがたい言葉をかけていただき、大学でみっちりと修行生活に入ることができたのです。

1st shot(最初の照射野)の決め打ち

ガンマナイフは画像が基本の外科治療です。治療に際しては詳細な画像診断が欠かせません。患者さんからの声をよく伺い、画像とあわせ、一体どこからどのように病気が始まり拡がったかを見極める必要があります。ガンマナイフ治療では、その病気の始まり(=へそ)と、大事な脳の構造物の関係から、まず、はじめの一手の1st shot(key shot:大事な照射野)を打ちます。この1st shotに、林先生は愛があって、迷いがないのです。これは確かな技術と知識と経験がなければできないものだと感じます。始めからこうしようと頭で考えたものではなく、患者さんから心と肌で感じ取ったことがkey shotになっています。的確に画像を動かして、次々と照射野を決め、できあがった治療計画は、本当に美しい、の一言です。key shotがうてなければ、当然、治療計画はぶれます。普段から、治療計画にバリエーションを持たせることを厳しく禁じられていますが、バリエーションといいながら、ぶれている治療計画を見透かされているのだと感じます。

 当代きってのイクボス、常に味方

 現在、ガンマナイフ治療班は私を含めてお母さんドクターが二人、看護師さんも幼い子供を抱えています。常日頃、「お前にしかしてやれないことをしてやれ。」「おれ、子供いないけど、子供いるんなら、精一杯してやれよ、って思うんだよな」「どうして夫の影が全くみえないのか、何をしているんだ」と、琴線にふれる言葉で、何度も何度も何度も救われました。林先生は、まず私たちの味方をしてくれるのです。育児や病児で勤務時間さえ不規則になりがちな私に、迷惑ではない。迷惑と思わせる環境が悪いとも、話してくださいました。その上、復職した女性医師に対して、「「すごく」よかった。母性を兼ね備えた脳外科医として小児医療が心強い」とまで、言ってくださり、これでついて行かない人がいるでしょうか。ですから、私たちのみならず、先輩後輩医師、看護さん、など、先生の元を訪れる人は後を絶ちません。

 三回目は言わないぞ(三回で最後だ)

三回目にならないよう、鋭意、精進中でございます。

ガンマナイフ室・脳神経外科医(30代女性)

私からみえる林先生は、何年経ってもとても偉大な、何を話しても「雲の上の人」といった先生です。

そして林先生の行う治療はまさに神の手のごとく、みるみると完璧な治療計画を完成させ、あっという間に泣いていた人を笑顔にして帰してしまう、まさに奇跡の治療そのものです。

でも、本当に私が魅了されているのは、そこではありません。

そんな「雲の上の人」である先生が、誰よりも泥臭く、人情に溢れた人であることに、ただ純粋に驚き、魅了され、今も同じガンマナイフ治療に携わらせていただいている理由です。そして私のみならず、数多くの方が林先生という人間に魅了されているのも同様の点にあるのではないかと思います。

中でも印象的な点を挙げるとすれば、

  • 患者さん・家族のみならず、目の前の人にただひたすら寄り添おうとする姿勢
  • 絶対に諦めない

といったところでしょうか。

メディアに取り上げられたりと一見華やかに見える林先生の医療ですが、傍で見させていただいている立場としては、先生の背景には常に壮絶な向かい風が吹き荒れ、「将来の夢♪」なんてとても軽々しく言えるようなものではありません。先生の医療にかける情熱と愛情の下、計り知れない努力と苦労で築き上げられた「人間関係の結晶」なのだと思います。

当初は、その結晶をまったく惜しむことなく、むしろ身を削ってまで目の前の患者さん・家族、難題に全てを注ぎ込まれる姿に、もはや畏怖の念を抱くしかありませんでした。

でも、「なぜそこまで」という疑問の答えは、林先生を訪れる患者さん・家族の方々の笑顔、生き様がすぐに教えてくれました。

多くの方が林先生に救われ、私もまたその一人です。

林先生が「雲の上の人」であることに変わりはありませんが、誰にでも分け隔てなく、誰よりも親身に寄り添ってくれる、私にとって林先生はそんな先生です。

30代女性・ファイナンシャルプランナー

「病院=病気や怪我が必ず治る場所、ではないという現実」 

私は普段、主に個人の方へマネーセミナーで講師として、公的制度や民間の保険のお話しする仕事をしています。

個別相談でよく伺うのは、「病気になんてならない」「がんになったらもういいや」「重症になったら諦めるから、治療はしないよ」と笑いながら言うお客様の言葉です。

今まで私は、そんなお客様の言葉に疑問を抱きながらも、肯定も否定もせずに、仕事をしてまいりました。

私の父は、現在、ある手術の後遺症に苦しんでいます。

命に係わる大病ではないものの、『(手術を)受けなければよかった』と毎朝毎晩疼き痛む部位を抑えています。

父が何より痛みを感じているのは、睡眠すらままならない痛みであるにも関わらず、術後の経過観察に通う病院で、その部位すら担当の先生が見てくれずに、「高齢だからもう再手術は無理だね」と匙を投げられていることです。

事実そうなのかもしれませんし、父の命があってこそと考えるならば、担当医は正解なのかもしれません。

しかし、私たち患者家族が希望するのは、『医師の治そうという心意気』を感じたいのです。

一方で医師不足の昨今、多忙な医師がリスクをとらないのは当たり前なのかもしれない。

仕事とは、

社会とは、

そういうものでまわっているのかもしれない、と思っておりました。

そんな中、初めて林先生の講演を伺ったとき、脳に雷が落ちたような衝撃を受けました。

「みなさん、脳に腫瘍があるといわれたら、どう感じますか。

終わりだ、と感じる人もいるでしょう。

実際にはどうかというと、歩いてこられる方であれば、私はほとんど治せる。

脳転移をおそれるな、

個数で命の時間はかわらない」

とおっしゃった先生を見て、

もし自分の大切な人に脳に腫瘍ができたら、絶対にこの先生に診てもらいたい、と心から思いました。

求めていたものは責任の所在ではなかった。

実際に先生にその後無理を言ってお願いし、先生の医療現場を何度も見学させていただきました。

先生の「患者の部位だけではなく、その後の生活もよりよいものにしたい」その熱意によってチームがより一層、一人ひとりの患者さんに熱を込めて接していたことです。

治せる可能性があるのに、治さないと困るお子様がいるのに、生きることに懸命になろうとしていない患者さんにゲキをとばしたり、

自分の専門分野じゃないときにははっきりと「こちらの先生が私より得意ですよ」と笑顔で対応し患者さんの話をよく聞いてくれる先生の姿を目の当たりにしました。

これが一流、いや、超一流の気迫なんだなあと、ただ圧倒されながら、

今まで私は仕事において、「病気になんてならない」「病気になったら諦める」そうおっしゃるお客様に、本気で接してこれていたのかなと思いを巡らせました。

自分をプロだと思っていたことを、恥ずかしく思いました。

林先生は、自分の損得を考えず、目の前の患者さんの病気だけではなく、その先の生活をも見てくれる、患者が求める医師そのもの、いわゆる、超一流の医師でした。

残念ながら、病院は、通いさえすれば必ずよくなるところではありません。

ただ、先生を選ぶことによって、治る確率を格段にあげることができるのです。

(ここでできれば統計をいれたいです。一般的に生存率何パーセントといわれている〇〇が、先生が治療すると〇〇%にまであがるといわれている、など)

林先生と出会ったから、セカンドオピニオンに行くことが本当に重要なんだと改めて理解できました。

父に熱意をもって話をすることができたから、次回、一緒にはじめてセカンドオピニオンに行ってきます。

治るか治らないかはわかりませんが、後悔しないように、父とできることは全部したいと思います。

目の前にいらっしゃる「がんになんてならない」とおっしゃっていた方々にも、怖いくらい真剣に話すようになりました。

林先生に出会えたことで、確率論ではなく、もし罹患したとき、経済的な選択肢を用意するという、本当の意味での仕事が、初めてできるようになったと思います。

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